命と自由

けしからん、とすぐに沸騰しがちな方は、株式のノウハウでもありませんし、購読を御遠慮下さい。
別に大した事は書きませんが、偽らざる本心で、もしかしたら不謹慎な話です。しかし、私の投資の原点でもあります。

命の尊さ

世の中には、そして、この地球には多くの命が満ちています。
戦争などで直接、命のやり取りをすることもありますが、私たちの活動の基盤は命のやり取りで形作られています。

「いただきます」と食卓で唱えますが、頂くのは命です。
私たちは他の命を取り入れることで、生き長らえています。植物や動物の命が私たちの糧となり、明日を生きる事が出来ます。

逆に言えば、私たちの命を繋ぐために、死んで貰ったのです。私たちには有機物が必要です。それは他の命を食べると言う事に他なりません。
命を奪わなければ、生きていくことも出来ないのが私たちです。

これは善悪でもなんでもなく、事実に過ぎません。聖職者も医師もすべからず命を奪って生きています。そして、そのために日々死んでくれた厖大な命があります。

「いただきます」と感謝し、舌鼓を打つわけですが、有り難さに涙すら浮かべることもあるでしょう。

命の価値

命は大切です。尊いと思います。しかも、命は様々な物に変わります。

未来があるのは命があるからです。今日があるのも、命があるからです。今この時も、自分の寿命を消費しています。1分1秒、命があるからです。

ですから、自分が労働して稼いでいるのは、稼いでいるわけではありません。
命を切り売りしているのです。命は自分の生きる時間、残された時間、そのものです。

生きると言うこと

私たちは生きていきたい、しかし、生きていくのに、命の切り売りをして生きていくのは、正しいことでしょうか。
もちろん労働は尊いです。命を使って、色々なものを生産したり、サービスを成して下さる方は、尊いです。
死んでくれた命と同じように有り難く、いつも感謝しています。しかし、哀れも感じます。

私は、生きる糧を得るためだけに、自分の命をいつまでも切り売りしたくない、それが本心でした。
私は貴重な時間の1分1秒も、強要された労働のために、いつまでも使いたくない、自分の時間をなるべく犠牲にしない自由が欲しいと、思っていました。

命を切り売りして、生きる糧を得るという行為は、何か違う、そう考えていたわけです。
私の命は別の事に使いたい、これが私の投資家としての原点です。

資産を持つと言う事

良く言われることに、お金の稼ぎ方は、自分が働くか、人を働かせるか、お金を働かせるか、です。
自分の命を切り売りするか、人の命を搾取するか、資産を使うかですね。

始めのうちは命を切り売りするしか、生きるすべはありませんが、なるべく早く資産を持つ事が必要と、「原点の私」は思いました。

富を生むもの

資産とは、富を生む物です。
切り売りして無くなっていくものではなく、日々、富を生産するものである事が大切です。

生むものは、切り売りしなくても済みます。恒に富が生まれ続けます。

富を生む物で、もっとも優れている物は、権利を得ることです。
この権利にはパテントの権利、ブランドの権利、土地の権利等、様々なものがありますが、会社の所有権、株式がもっとも優れています。
なぜなら、この世の富のほとんどを株式会社が生みだしていて、そのまた大部分を生みだしているのが、上場企業だからです。

そして、資産を所有続けるには、長期投資です。
最初に命を使って、種銭を得たり、勉強をしたり、銘柄の検討をしたりしますが、あとは観測だけして、自分の命を好きな事だけに使えます。

私に取っては、短期投資は労働して命を切り売りしていることに他なりません。
結果的に短期投資になったり、何かの都合で短期投資をしたりすることもありますが、割りの良いものとは思えません。

もちろん、長期投資には、複利のマジックも存在します。また、売る度に利益の20%が税金として投資資金から流失するような事が無いなど、長い目で見て事実上、短期投資に比べて非常に効率が良くなります。
しかし、やはり、私の観点では、長期投資は毎日労働をしなくても良い、つまり、命を削らなくても済むと言う事が最も割りが良いことなのです。

私は頑張って、命を削って、生活を向上させることは望みません。贅沢をしたいわけではなく、慎ましい生活で良いのです。
自分の命を自分の使いたいことだけに、使いたいだけなのです。

毎日が日曜日で十分です。毎日が正月である必要はありません。
別の観点では、怠け者と言うのかも知れませんし、それが真実なのでしょう。

しかし、これが自由を得るということです。そして、今は慎ましくも自由を満喫しています。

ただし、ほんの少しの命を使って、このサイトを書いています。
強制する訳ではありませんが、何かの気づきを得る方が少しでも居れば、それはそれで、何か意味があると思っているからです。

気付けばあとは行動だけですね。